2019/07/20 令和時代の製造業の発展戦略再びーー『グローバル化と失われた30年』ーー
以下は 2019年7月17日のオートメーション新聞 第188号に掲載された寄稿記事です)
令和時代の製造業の発展戦略再び
ーー 『グローバル化と失われた30年』 ーー
バブル崩壊から30年が過ぎ去った。かつて『失われた10年』と呼ばれた日本経済の悲劇は、10年を過ぎても続き、今日の若き日本人から「何が失われたのか?も分からない」と言われても不思議ではないほどバブル時代は遠い昔のこととなった。
平成元年の頃、世界経済の頂点に君臨していたのは日本企業であった。世界の時価総額ランキング上位50社に、日本企業の35社がランクインし、日本は光り輝いていた。たったの30年が経過した平成の最後、世界の経済界から日本企業の姿は消えた。
令和にバトンが渡った現在、上位50位にランクインできる日本企業はトヨタ1社であり、それも35位。かろうじて入っているのみである。日本企業の労働生産性も低く、先進国最低となってしまった。事実、平成時代は名実ともに『失われた30年』である。
「失われた30年、失ったものはなにか?」その答えは、日本人の「自信」と「誇り」。そして世界から羨まれる「日本の力(国力)」と「日本の信頼」である。
なぜこうなったのか?この原因を究明すると、「グローバル化」というキーワードに踊らされた日本企業の不幸が浮き彫りになってくる。
バブル崩壊で、自信を失った日本の大多数の経営陣は、政治家やメディアが掲げる「グローバル化と構造改革」を経営の旗印とし、日本で育まれた日本の企業文化を放棄し、米国の掲げるグローバル価値観に追従することに血眼になってしまった。
この結果、国際市場では韓国、中国にボロ負けし、国内ではリストラで技術も人材も失い、残った社員のモチベーションすらも低下した。家電大手企業の悲劇がこれをもの語っている。
戦後75年間の歴史を精査すると、歴史の中から日本経済のパラダイムを大きく揺り動かした『3つの事件』と、グローバル化の本質が見えてくる。
最初の事件は、戦後間もない①1951年の日米安保条約締結。2つ目は、②1985年のプラザ合意。そして最後が、③平成初期のバブル崩壊である。
1951年の講和条約とともに締結された日米安保条約により、日本は自由主義陣営に所属することが決まった。すべての経済活動の歴史的原点がここにあり、「新しい価値観を持つ日本人が起業し、新しい日本国家の建設が始まった」瞬間である。
戦争を放棄した日本は、まずは飢えをしのぎ「食料を手に入れること」に邁進し、その次に「経済力の向上」という課題に向かって一丸となって突き進んでいった。これが国家の明確な目標であった。
この目標のもとで、製造業が復活し「日本人が、日本人の顧客のために、日本の工場で作る」概念が徹底され、最新の国産機械も誕生し、世界最高のものづくりを純粋なる国産化によって日本は手に入れた。
日本の工場が作り出す製品の機能や品質は、世界№1である。この頃の社会人は、皆が夢を描き、豊かさを求め、先端技術に挑戦し、「希望と勇気」を持って、過酷な労働に励んでいた。
エコノミックアニマルとまで比喩された日本人の過剰労働は、終身雇用制をベースとした企業村社会での、自発的な行動の結果であり、これが日本式経営として日本中に定着した。日本式経営のもとで最先端技術が花開き、日本の顧客のために日本ニーズを組み込んだ日本製品は、信頼のブランドとして世界中でも話題となった。
各企業は、日本で成功した商品を世界中に販売拡大する戦略を推進した。この国際化を「インターナショナル化」と呼び、大成功を収めている。国や国境を意識しない「グローバル化」とは全く異なる国際化である。
大成功を収め、喜びに湧く日本経済に衝撃を与える大きな国際的事件が、1985年に起きた。ニューヨークプラザホテルで開催された先進国蔵相会議(G5)で、世にいう「プラザ合意」である。
プラザ合意は、円高・ドル安への誘導合意である。円はこの合意により急速に円高に振れ、1ドル230円台から1年で150円まで円高が進んだ。これにより、各企業はそろって低賃金のアジアに工場を進出することを戦略に据えた。
「日本人が、日本人の顧客のために、日本の工場で作る」パラダイムが崩れ、「アジア人が、日本人の顧客のために、アジアの工場で作る」というパラダイムシフトが起きている。
円高不況を克服し、逆に円高をきっかけにバブル経済が芽吹き、土地や株式は高騰し大儲けする企業が続出した。企業も個人もお金持ちとなったが、夢は続かない。平成の時代の始まりとともに、バブル崩壊が始まり『失われた30年』が始まったのである。
今回のテーマである「グローバル化」が日本で始まったのは、バブル崩壊以降である。「世界の誰かが、グローバルの顧客のために、世界の何処かの工場で作る」がグローバル化である。同じ国際化でも「インターナショナル化」と「グローバル化」の違いを歴史から学ぶことができる。
令和時代の製造業再起動に大きな障害となるのは「グローバル化」の思想である。世界中の顧客ニーズを得るためにグローバル・マーケティングを日本の企業が行うことは、極めて難しく、国境をなくし、人・資本・モノを自由に移動し経営を行うことが、日本人にとって最も苦手であることは歴史が証明している。
令和時代の製造業再起動のポイントは、①国内工場への回帰(リショアリング)②短期戦略としての外国人労働者の雇用③IoT/デジタル化及びロボット化による徹底的な自動化工場の推進である。
世界にばらまいた優秀な社員も国内に戻し、日本の本丸を固めることに尽きる。日本の歴史・文化を学び、日本人としての自信と誇りを取り戻し、皆が大富豪になることを目標に据え、令和時代の製造業の発展戦略を練ることが必須である。
すべての人々が団結し、日本の国力増強を考えて実行さえすれば、令和の幸せが実現するだろう。

著者 高木俊郎
令和時代の製造業の発展戦略再び
ーー 『グローバル化と失われた30年』 ーー
バブル崩壊から30年が過ぎ去った。かつて『失われた10年』と呼ばれた日本経済の悲劇は、10年を過ぎても続き、今日の若き日本人から「何が失われたのか?も分からない」と言われても不思議ではないほどバブル時代は遠い昔のこととなった。
平成元年の頃、世界経済の頂点に君臨していたのは日本企業であった。世界の時価総額ランキング上位50社に、日本企業の35社がランクインし、日本は光り輝いていた。たったの30年が経過した平成の最後、世界の経済界から日本企業の姿は消えた。
令和にバトンが渡った現在、上位50位にランクインできる日本企業はトヨタ1社であり、それも35位。かろうじて入っているのみである。日本企業の労働生産性も低く、先進国最低となってしまった。事実、平成時代は名実ともに『失われた30年』である。
「失われた30年、失ったものはなにか?」その答えは、日本人の「自信」と「誇り」。そして世界から羨まれる「日本の力(国力)」と「日本の信頼」である。
なぜこうなったのか?この原因を究明すると、「グローバル化」というキーワードに踊らされた日本企業の不幸が浮き彫りになってくる。
バブル崩壊で、自信を失った日本の大多数の経営陣は、政治家やメディアが掲げる「グローバル化と構造改革」を経営の旗印とし、日本で育まれた日本の企業文化を放棄し、米国の掲げるグローバル価値観に追従することに血眼になってしまった。
この結果、国際市場では韓国、中国にボロ負けし、国内ではリストラで技術も人材も失い、残った社員のモチベーションすらも低下した。家電大手企業の悲劇がこれをもの語っている。
戦後75年間の歴史を精査すると、歴史の中から日本経済のパラダイムを大きく揺り動かした『3つの事件』と、グローバル化の本質が見えてくる。
最初の事件は、戦後間もない①1951年の日米安保条約締結。2つ目は、②1985年のプラザ合意。そして最後が、③平成初期のバブル崩壊である。
1951年の講和条約とともに締結された日米安保条約により、日本は自由主義陣営に所属することが決まった。すべての経済活動の歴史的原点がここにあり、「新しい価値観を持つ日本人が起業し、新しい日本国家の建設が始まった」瞬間である。
戦争を放棄した日本は、まずは飢えをしのぎ「食料を手に入れること」に邁進し、その次に「経済力の向上」という課題に向かって一丸となって突き進んでいった。これが国家の明確な目標であった。
この目標のもとで、製造業が復活し「日本人が、日本人の顧客のために、日本の工場で作る」概念が徹底され、最新の国産機械も誕生し、世界最高のものづくりを純粋なる国産化によって日本は手に入れた。
日本の工場が作り出す製品の機能や品質は、世界№1である。この頃の社会人は、皆が夢を描き、豊かさを求め、先端技術に挑戦し、「希望と勇気」を持って、過酷な労働に励んでいた。
エコノミックアニマルとまで比喩された日本人の過剰労働は、終身雇用制をベースとした企業村社会での、自発的な行動の結果であり、これが日本式経営として日本中に定着した。日本式経営のもとで最先端技術が花開き、日本の顧客のために日本ニーズを組み込んだ日本製品は、信頼のブランドとして世界中でも話題となった。
各企業は、日本で成功した商品を世界中に販売拡大する戦略を推進した。この国際化を「インターナショナル化」と呼び、大成功を収めている。国や国境を意識しない「グローバル化」とは全く異なる国際化である。
大成功を収め、喜びに湧く日本経済に衝撃を与える大きな国際的事件が、1985年に起きた。ニューヨークプラザホテルで開催された先進国蔵相会議(G5)で、世にいう「プラザ合意」である。
プラザ合意は、円高・ドル安への誘導合意である。円はこの合意により急速に円高に振れ、1ドル230円台から1年で150円まで円高が進んだ。これにより、各企業はそろって低賃金のアジアに工場を進出することを戦略に据えた。
「日本人が、日本人の顧客のために、日本の工場で作る」パラダイムが崩れ、「アジア人が、日本人の顧客のために、アジアの工場で作る」というパラダイムシフトが起きている。
円高不況を克服し、逆に円高をきっかけにバブル経済が芽吹き、土地や株式は高騰し大儲けする企業が続出した。企業も個人もお金持ちとなったが、夢は続かない。平成の時代の始まりとともに、バブル崩壊が始まり『失われた30年』が始まったのである。
今回のテーマである「グローバル化」が日本で始まったのは、バブル崩壊以降である。「世界の誰かが、グローバルの顧客のために、世界の何処かの工場で作る」がグローバル化である。同じ国際化でも「インターナショナル化」と「グローバル化」の違いを歴史から学ぶことができる。
令和時代の製造業再起動に大きな障害となるのは「グローバル化」の思想である。世界中の顧客ニーズを得るためにグローバル・マーケティングを日本の企業が行うことは、極めて難しく、国境をなくし、人・資本・モノを自由に移動し経営を行うことが、日本人にとって最も苦手であることは歴史が証明している。
令和時代の製造業再起動のポイントは、①国内工場への回帰(リショアリング)②短期戦略としての外国人労働者の雇用③IoT/デジタル化及びロボット化による徹底的な自動化工場の推進である。
世界にばらまいた優秀な社員も国内に戻し、日本の本丸を固めることに尽きる。日本の歴史・文化を学び、日本人としての自信と誇りを取り戻し、皆が大富豪になることを目標に据え、令和時代の製造業の発展戦略を練ることが必須である。
すべての人々が団結し、日本の国力増強を考えて実行さえすれば、令和の幸せが実現するだろう。

著者 高木俊郎
2019/07/01 令和時代のパラダイムシフトーー『希少価値の変化…機械から人へ』ーー
以下は 2019年6月26日のオートメーション新聞 第186号に掲載された寄稿記事です)
令和時代のパラダイムシフト
ーー 『希少価値の変化…機械から人へ』 ーー
パラダイムシフトとは何か?これを理解するのは容易でないが、中小製造業を取り巻く環境を分析する上で、パラダイムシフトの考察は重要なポイントである。今回はこれをテーマに取り上げる。
まずはじめに、パラダイムシフトとはなにか?を簡単に解説したい。パラダイムシフトを理解する上で、まず皆さんの共通の概念を浮き彫りにする必要がある。例えば、皆さんは今までに、食料が買えず餓死した人に会った事があるだろうか?
当然ではあるが、今の日本にそんな人がいないのは常識であり、人々は「食料は簡単に買える」という共通の価値観を保有している。
今の日本では、食料品や電気・エネルギーなどは「誰でも手に入る商品」であり、このような一般的かつ汎用的な商品を「コモディティー商品」と呼ぶ。半面で、特別仕様の高級車は、皆が買えないモノであり「希少価値の商品」である。
今の時代を支配する「食料や電気があって当たり前」という共通の価値観が、将来どこかで突然変化する事をパラダイムシフトと呼ぶ。
例えば、ある日突然、地球規模の天候不良やエネルギー危機が訪れ、食料品やエネルギーが極端に不足し、これらの商品が入手困難となり「希少価値商品」になるかもしれない。また一方で、特別仕様の高級車には人々の関心が無くなり、車は単なる「コモディティー商品」になるかもしれない。
パラダイムシフトとは、共通価値観の突然の変化であり、希少価値が突然消えてコモディティーになる現象である。
歴史をさかのぼると、社会の根底を変えてしまった大きなパラダイムシフトが起きている。150年前の日本での明治維新は、国際社会の大きなパラダイムシフトに強い影響を受けている。
「薩長連合を勝利に導いた国際的パラダイムシフトが起きていた」と断言しても良い。この影響とは、米国南北戦争を舞台にした「武器と綿花」のパラダイムシフトである。
ご周知の通り、明治維新の数年前に、米国では南北戦争が勃発し4年間に亘る市民同士の戦闘で100万人に迫る犠牲者を出し、北軍勝利に終わった。米国の南北戦争は、歴史に残る「人類最初の本格的な近代兵器戦争」と記録されている。
大英帝国から始まる産業革命により、機械が生まれ、労働生産性が大幅に向上(一説では、300倍の労働生産性向上があったと言われている)。武器の製造能力向上や機能の進化が続き、最新兵器の所有が戦争勝敗の決め手となっていった。戦争をやっている時には、最新兵器こそ最も重要な「希少価値商品」の代表であった。
それに反し、米国南部で栽培される綿花は、米国の重要な輸出品であるが、何の進化も希少価値もなく、奴隷を使って安く作るコモディティーであった。しかし、「武器は希少価値、綿花はコモディティー」という価値観が、突然崩壊する日がやってくる。
それは、南北戦争終結の日であり、この日から突然パラダイムシフトが始まるのである。戦争終了により、武器の需要は無くなり、国際的な武器価格は大暴落。半面、南部の綿花畑は荒廃し、奴隷もいなくなり、綿花の国際価格が暴騰し、綿花はいきなり「希少価値商品」となった。
一夜にして「綿花が希少価値、武器がコモディティー」というパラダイムシフトを知っていたのは、琉球を傘下に持つ薩摩藩である。薩摩は、琉球の国際貿易を通じパラダイムシフトを正確に把握していたのである。
国内の綿花を安く買い集め、国際市場で高額で売りさばき、暴落した最新兵器を徹底的に買い集めた「薩摩藩海外事業部?」のビジネス感覚には脱帽する。この密輸入の結果、薩摩藩は莫大な最新武器を保有し、これを背景に倒幕に成功するのである。
今回のテーマ「令和時代のパラダイムシフト」に話を戻し、中堅中小製造業の成長戦略に焦点を当てて見ると、明確なパラダイムシフトが見えてくる。
ほんの数十年の昔、日本の工場経営者の共通パラダイムは、「機械が希少価値」であった。「良い機械を買うこと」に人生をかけた経営者の夢が、共通概念として定着していた。
昭和時代の工場経営者は、「良い機械を買うのだ!」との信念を持って、個人的に使うお金を制限し、最新鋭機械の購入に全財産をつぎ込み、巨額の借金と高い金利を背負う「経営者の夢に向かった命がけの挑戦」を行っていった。
この共通概念によって日本の製造業は支えられていた。機械の所有に人生をかけた、昭和の経営者によって日本の製造業は発展したのである。幸いにして、昭和の時代は高度成長による需要の拡大があり、「機械の導入によって生産性が大幅に向上した」時代である。
誰よりも先に「良い機械を買った会社」はもうかり、繁栄を実現できたのも昭和の時代である。「勝ち組」と称される企業は、例外なく昭和の時代から継続的に「良い機械を買うこと」を実行してきた企業である。
令和の時代を迎え、明らかに「機械は希少価値」の概念は変化している。令和の時代の希少価値は「人」である。希少価値が「機械から人に」移行した。令和の時代のパラダイムシフトは「機械を希少価値とした概念から、人を希少価値とする概念」への変化であることは明白である。
クラウドや人工知能など最新技術をフル活用し、人の能力向上と作業効率向上に投資することこそ令和の時代の勝ち残り戦略である。
機械をたくさんそろえ、機械に依存した「昭和の時代の経営」はすでに賞味期限が切れている。「希少価値の変化…機械から人へ」こそ令和時代の経営戦略の柱であろう。

著者 高木俊郎
令和時代のパラダイムシフト
ーー 『希少価値の変化…機械から人へ』 ーー
パラダイムシフトとは何か?これを理解するのは容易でないが、中小製造業を取り巻く環境を分析する上で、パラダイムシフトの考察は重要なポイントである。今回はこれをテーマに取り上げる。
まずはじめに、パラダイムシフトとはなにか?を簡単に解説したい。パラダイムシフトを理解する上で、まず皆さんの共通の概念を浮き彫りにする必要がある。例えば、皆さんは今までに、食料が買えず餓死した人に会った事があるだろうか?
当然ではあるが、今の日本にそんな人がいないのは常識であり、人々は「食料は簡単に買える」という共通の価値観を保有している。
今の日本では、食料品や電気・エネルギーなどは「誰でも手に入る商品」であり、このような一般的かつ汎用的な商品を「コモディティー商品」と呼ぶ。半面で、特別仕様の高級車は、皆が買えないモノであり「希少価値の商品」である。
今の時代を支配する「食料や電気があって当たり前」という共通の価値観が、将来どこかで突然変化する事をパラダイムシフトと呼ぶ。
例えば、ある日突然、地球規模の天候不良やエネルギー危機が訪れ、食料品やエネルギーが極端に不足し、これらの商品が入手困難となり「希少価値商品」になるかもしれない。また一方で、特別仕様の高級車には人々の関心が無くなり、車は単なる「コモディティー商品」になるかもしれない。
パラダイムシフトとは、共通価値観の突然の変化であり、希少価値が突然消えてコモディティーになる現象である。
歴史をさかのぼると、社会の根底を変えてしまった大きなパラダイムシフトが起きている。150年前の日本での明治維新は、国際社会の大きなパラダイムシフトに強い影響を受けている。
「薩長連合を勝利に導いた国際的パラダイムシフトが起きていた」と断言しても良い。この影響とは、米国南北戦争を舞台にした「武器と綿花」のパラダイムシフトである。
ご周知の通り、明治維新の数年前に、米国では南北戦争が勃発し4年間に亘る市民同士の戦闘で100万人に迫る犠牲者を出し、北軍勝利に終わった。米国の南北戦争は、歴史に残る「人類最初の本格的な近代兵器戦争」と記録されている。
大英帝国から始まる産業革命により、機械が生まれ、労働生産性が大幅に向上(一説では、300倍の労働生産性向上があったと言われている)。武器の製造能力向上や機能の進化が続き、最新兵器の所有が戦争勝敗の決め手となっていった。戦争をやっている時には、最新兵器こそ最も重要な「希少価値商品」の代表であった。
それに反し、米国南部で栽培される綿花は、米国の重要な輸出品であるが、何の進化も希少価値もなく、奴隷を使って安く作るコモディティーであった。しかし、「武器は希少価値、綿花はコモディティー」という価値観が、突然崩壊する日がやってくる。
それは、南北戦争終結の日であり、この日から突然パラダイムシフトが始まるのである。戦争終了により、武器の需要は無くなり、国際的な武器価格は大暴落。半面、南部の綿花畑は荒廃し、奴隷もいなくなり、綿花の国際価格が暴騰し、綿花はいきなり「希少価値商品」となった。
一夜にして「綿花が希少価値、武器がコモディティー」というパラダイムシフトを知っていたのは、琉球を傘下に持つ薩摩藩である。薩摩は、琉球の国際貿易を通じパラダイムシフトを正確に把握していたのである。
国内の綿花を安く買い集め、国際市場で高額で売りさばき、暴落した最新兵器を徹底的に買い集めた「薩摩藩海外事業部?」のビジネス感覚には脱帽する。この密輸入の結果、薩摩藩は莫大な最新武器を保有し、これを背景に倒幕に成功するのである。
今回のテーマ「令和時代のパラダイムシフト」に話を戻し、中堅中小製造業の成長戦略に焦点を当てて見ると、明確なパラダイムシフトが見えてくる。
ほんの数十年の昔、日本の工場経営者の共通パラダイムは、「機械が希少価値」であった。「良い機械を買うこと」に人生をかけた経営者の夢が、共通概念として定着していた。
昭和時代の工場経営者は、「良い機械を買うのだ!」との信念を持って、個人的に使うお金を制限し、最新鋭機械の購入に全財産をつぎ込み、巨額の借金と高い金利を背負う「経営者の夢に向かった命がけの挑戦」を行っていった。
この共通概念によって日本の製造業は支えられていた。機械の所有に人生をかけた、昭和の経営者によって日本の製造業は発展したのである。幸いにして、昭和の時代は高度成長による需要の拡大があり、「機械の導入によって生産性が大幅に向上した」時代である。
誰よりも先に「良い機械を買った会社」はもうかり、繁栄を実現できたのも昭和の時代である。「勝ち組」と称される企業は、例外なく昭和の時代から継続的に「良い機械を買うこと」を実行してきた企業である。
令和の時代を迎え、明らかに「機械は希少価値」の概念は変化している。令和の時代の希少価値は「人」である。希少価値が「機械から人に」移行した。令和の時代のパラダイムシフトは「機械を希少価値とした概念から、人を希少価値とする概念」への変化であることは明白である。
クラウドや人工知能など最新技術をフル活用し、人の能力向上と作業効率向上に投資することこそ令和の時代の勝ち残り戦略である。
機械をたくさんそろえ、機械に依存した「昭和の時代の経営」はすでに賞味期限が切れている。「希少価値の変化…機械から人へ」こそ令和時代の経営戦略の柱であろう。

著者 高木俊郎
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